「昆虫は食べたくない人々!?」
現代の日本では「虫」は食べたくない。という人が多数派。
美味しくて栄養もあり、食糧危機回避の切り札として注目される未来食なのだ。また伝統的に昆虫食を行なっている地域も多く、世界的にみるとかなりメジャーな食材なのだ。ということを説明してみても、嫌なものは嫌という人は多い。
なぜ昆虫を食べたくないのか?と尋ねると多くの人が「見た目」が無理だ。と答える。
「まあエビとかカニなんかも虫みたいなもんやしな」とか「考えたらナマコやホヤなんかも気持ち悪いもんな」なんてのもよく聞く話だが、エビは大丈夫でコオロギは無理だという理由はなにか?
「小さい頃から食べてたら気持ち悪くないんやろな」なんてこという人もいてる。
正解!人間という雑食性の動物は、初めて遭遇する食べ物に警戒心を抱く傾向にある。
知らない物は危険物かもしれんから、知らんものは食べない。というのは生命維持のための危険回避といえる。そのように馴染みのない食べ物を拒否する行動特性を「食物新奇性恐怖」という。
家庭や社会など自分が属しているグループで食べられてないものを気持ち悪いと思うのは生物として正常な状態といえる。つまり、昆虫を食べるのが「気持ち悪い」と感じるのは見た目のせいではないのだ。

たとえばゴキブリの形をしたチョコレートと、ゴキブリの粉で作ったクッキー。カイコの形のチョコレートと、カイコの粉を練りこんだアイスクリーム。「見た目」が嫌だというならば、クッキーやアイスを食べるはずであるが、どうだろうか?チョコレートを食べる人が多いのではないやろか。見た目は虫やけど。

また「見た目イヤ派」の意見でよくあるのは「足が嫌!」というやつ。これは欧米諸国の人々が頭のついた小エビや小魚を気持ち悪がって食べないのと共通点がありそうだ。
日本人は食べ慣れているから感じないが、アメリカ人やオーストラリア人は魚の目が気持ち悪いという。
現代社会は生き物を食べることに対する罪悪感を感じないようになっている。血の滴るステーキは牛の死体の切れ端であるが、牛を殺して食べている。という実感はない。ステーキはお金で買える商品でしかないのだ。
欧米人は小魚の「目」から、日本人は昆虫の「足」から生きている状態を連想するのではないか?
生きている牛よりも、生きている虫に触れる機会が多く、昆虫は牛と違い生きている姿のまま食べることが多く、生き物の命を奪っているという罪悪感が生まれるのだと思う。その罪悪感を感じることが気持ち悪く、昆虫を食べるのが気持ち悪い。となるのではないか。
そもそもステーキの「見た目」は人の肉のようではないか。なぜ気持ち悪くないのか。
他にもよくある意見として「食べ物が無くなったら虫を食べるけど、美味しいものがたくさんあるこの時代になんでわざわざ虫を食べるのか?」というもの。
「食べ物がたくさんあるのに」というが、あるうちに次の準備をしておくべきである。米がたくさん取れてまだまだあるから。といって種を撒かずに食べる分が無くなってから田植えをしても、収穫までの間に食べる米がないということだ。
WFP(国連食糧支援機関)によると現代でも8億人以上の人々の食糧が足りていないという。じつに9人に1人の割合である。子供に限って言えば4人に1人が飢餓的な状態にあるのである。
食糧危機は未来の話ではない。未来の食糧危機とは捏造で食糧危機自体がこないなんて意見もあるが、実際に現代でも食べ物に困っている人々はかなりいてるのだ。必要以上に食べたり、多くの食糧を廃棄している我々は貧困地域から食べ物を奪い取っているのと同じことである。効率の良い昆虫養殖を行うことで、食料の輸入を減らすことも飢餓問題の解決につながる一歩ではないか。
また、災害や戦争、テロや恐慌などで突発的に食べ物に困ることだってあるから、その備えとして昆虫を食べることを経験しておいて損はない。
結局のところ「昆虫を食べるのは馴染みのないものであるから気持ち悪い」というのが昆虫を食べない大きな理由であり、それは前述したように「生命維持のための危険回避」であるはずだが、この激動の時代を生き抜いてゆくためには「昆虫を食べない」より「昆虫を食べる」方が生き残る確率は上がるはずだ。
まずは「食べられない」を「食べられる」にする必要がある。
なんとなく気持ち悪いと感じる昆虫食の理由を安易に「見た目」のせいにしたり、いくらでも他に食べるものがあるからという論理のすり替えを行うのではなく、知性を持って「なんとなく気持ち悪い」を乗り越えた先には、とても美味しい未来が待っている!と思う。たぶん。知らんけど。