佐藤春夫の『蝗の大旅行』を読む
佐藤春夫(1892〜1964)は大正・昭和期の小説家・詩人で、ロマン主義的作風で知られている。『蝗の大旅行』(1926(大正15)年、改造社)は彼が初めて書いた14編の童話を収めている。ロマン主義の特徴である感情や個性の自由な表現によって童話も描かれている。

主人公の僕は台湾を旅行していた。泊まった町から朝の五時半発の汽車に乗る。晴れて気持ちがよく、まるで子供のころの遠足のように心弾ませていた。二駅目で二人の男が同じ車両に乗り込み、僕の近くの席に座った。見送りの方の男が被っていた麦わら帽子を脱いで膝に置いた。僕は何気なく男の脱いだ帽子に視線を向けた。するとその帽子の縁になんと一匹の蝗がじっとつかまっているではないか。
蝗は帽子が動いてもじっとしている。それを見ていた僕は「この痩せた紳士が自分の帽子にゐる蟲に氣がついて拂ひ落しはしないかと、何故ともなく蝗のためにそれが心配だつた」と蝗を思いやる。
急に発車ベルが鳴ったので見送りの男は慌てて麦わら帽子を被って席を立った。いままで身動きしなかった蝗は急に跳んでもう一人の男の脇の席に「紳士らしく行儀よく乗っかってゐる」。汽車に乗り込んだ蝗を見るのは生まれて初めてだ。「僕は笑ひころげたい氣持を堪へて、その蝗から暫く目を放さなかった」。蝗はこの汽車でどこまで行くのだろうか。「臺中の近所は米の産地だからそろそろ取入れが近づいたといふのでその地方へ出張するのだろうか」。
この蝗はどこまで遠くへいくのだろうか。蝗にとっては僕が東京から台湾へ来たくらい遠い旅ではなかろうか。僕は下車する駅に近づいたとき、自分の被っていた帽子を裏がえしして「小さい大旅行家」に差し出し、ここに乗って一緒に降りないかと誘った。だが蝗は先に用があると見え、帽子に乗ってこなかった。
「蝗君。大旅行家。ではさよなら。用心をし給え――途中でいたづらつ子につかまつてその美しい脚をもがれないやうに。失敬。」
読み手は自分が「小さい大旅行家」になって冒険の旅をする。そんな子供たちに佐藤春夫は一匹の蝗を通して優しい眼差しを向ける。気をつけて、でも勇気をもって生きていきなさい、と。

トノサマバッタなどが大発生して作物を食い荒らすいわゆる《蝗害》は、アフリカや中近東など大陸で知られている。日本でも明治から大正にかけて主に北海道で大発生の記録がある。佐藤春夫もおそらくこのことは知っていたに違いない。ただ作者は蝗に長距離移動能力を付与しながらも孤独相を描くことで、子供たちの冒険心を満たそうとしたのではないだろうか。その精神が仮面ライダーにも引き継がれているように思う。 最後に「蝗」はいわゆるイナゴではない。おそらく舞台が台湾ということもあり、外箱の絵のようなタイワンツチイナゴではないかと想像する。それに対して本文のイラストは同じバッタ目だがキリギリスに見える。挿絵画家の意図はどこにあるのだろうか。いまとなっては知る由もない。